今日は大晦日です。 
 大晦日も新年も、同じようなスケジュールで過ごしておりますが、やはり気持ちが新たになります。
 失敗、未熟さ、過ち、至らなさ、後悔・・・そんな思いを抱えてこの一年を過ごしました。
 しかし、人間はまた新しい気持ちやりなおすことができる、そういったチャンスを新年という行事が与えてくれるのかもしれません。
 
 
 今日は「ヘンリー六世 第三部」を読む。
 ヘンリー六世自身は主役だが、三部作全体を通してそんなに存在感がない。
 どちらかというと妻のマーガレット王妃のほうががんばっている。
 彼女は野心も強く、劣勢とみるや自分で軍隊を率いて戦争をするくらいの恐ろしさだ。
 ヘンリー六世自身は温厚で戦も苦手で、信仰厚い。
 戦乱の世でなければ、素晴らしい王様だっただろう
 われこそ王にと貴族らが戦っている中、一番王様になりたくない人がなっているのだから皮肉なものだ。
 ヘンリー六世は望む望まざるにかかわらず、生後9ヶ月で王に即位させられた。

 
 しかし、この王様は三部作最後にして俄然存在感を見せる。
 戦の最中、王は自分は羊飼いに生まれたかった、と嘆く。
 そこに、父親を殺してしまった息子と息子を殺してしまった父親がそれぞれその死体を抱えて登場。
 それぞれ自分の運命を嘆く。
 王は言う。
「悲しみに心をうちひしがれたか、あわれなものたちだ、
 だがここにいるのはおまえたち以上に悲しみに嘆く王なのだ」
 
 戦争とはどれほどむなしく愚かなことか。
 王が一番そのことを知っている。
 しかし、その王の国で内乱が絶えずそれを止める手立てもないのだ。
 その悲しみが実によく表れている場面だ。

 
 ヘンリー六世は殺され、王エドワードが政権を握り三部作は終了する。
 しかし、弟のリチャードはすでに野心満々。
 この作品の中盤でもリチャードはどれほど自分が王になりたいか、五ページくらいにわたって述べている。
 シェイクスピアの作品で長い台詞を話す人はそれだけ自分の思いが強いということだ。
 とすれば、このリチャードの思いはどれほどのものだろうか。
 これが、かの有名な「リチャード三世」につながるわけだが。
 彼が結局どうなったかと思うと嘆かわしい。

  
 大きな力を持ちながらも結局は敗れたウォリック伯の言葉が胸に響く。
「ああ、栄華も権勢も、しょせんは土と埃に過ぎぬのか?
 人間、どう生きようと、結局は死なねばならぬのか?」