「ペリグリーズ」に友達の知り合いが出演するらしい。
 というわけで今日は「ペリクリーズ」。

 これは正直、どういうふうに書けばいいのだろう、と悩む作品だ。
「一冊でわかるシェイクスピア作品ガイド37」によるとシェイクスピアの「ロマンス劇」の最初の作品で「単なる恋愛ものを指すのではなく、「悲喜劇」の形をとり、家族(一族)の離散、長い歳月の放浪といった「悲劇」から、後半は再会、和解、再生となり、ハッピーエンドの結末に逆転するパターンをいう」とのこと。

 
 戸惑いの第一に、主人公のツロの領主ペリクリーズがちょっと特徴がなさすぎる。
 人間的に素晴らしく、領主とも慕われていて、武道にも長けている。
 あんまり欠点らしい欠点がない。
 
 戸惑いの第二に展開が突飛すぎる。
 ペリクリーズが、運命に翻弄され、様々な国を旅し嵐などに出会いその間、妻と娘を失う。
 しかし、実は死んだと思っていたら生きていて最後に出会い、良かった良かった、で終わり。
 ペリクリーズの妻、セーザや、娘マリーナなど美女が登場するが、彼女らもいまいち特徴のない人々だ。
 美しく、人格も優れていて何の欠点もない。
 マリーナは運命に翻弄されて、売春宿に売られるがお客さんに正しい道を説くことで、客が皆改悛してしまう。
 マリーナは言う。
おかみ「まあまあ、きれいな顔をして、なにを嘆いているんだい?」
マリーナ「私がきれいに生まれついたことを」
 美しいがゆえに売春宿に売られてしまったことを嘆いている台詞だが、ここだけ読むとあまり共感できない部分でもある。

 
 全体的にロマンチックで、おとぎ話のようだが、近親相姦の王と娘、売春宿、自分の娘が目立たなくなるという理由でマリーナ殺害を計画するダイオナイザなど相当毒のある設定が盛り込まれているところは面白い。
 ダイオナイザは夫に言う。
「みんながみんなマリーナの顔ばかり見つめ、私の娘にはだれ一人見向きもされませんでした。うちの子はばかにされ、あいさつひとつ受ける値打ちのない下女あつかいされたのです。私は腸が煮えくり返る思いだった。私のやりかたが人の道にはずれているとおっしゃるなら、あなたはご自分の娘を愛してないのです、私はあなたの一人娘に母親として当然のことをしたと思っています。」
 この人の考え方は現在の犯罪にも通じるところがあり、興味深い。

 売春宿のおかみのキャラクターも強烈。
 主要人物が美しく清らかな分、余計こういった悪の人々が浮き上がる。
 
 これをどう上演するのか。
 話の展開自体はいろいろ無理があるなあとも感じるが、おとぎ話の国々の世界なのでいろいろ自由に設定することも可能だ。
 黙劇や踊りの場面もふんだんに盛り込まれているので、発想豊かに考えることができそう。
 舞台装置などどうにでもできそうで、楽しくなりそうだ。

  
 
 朝日新聞の今日の朝刊の「相談室」の記事が気になった。
 いわゆる悩み事相談の記事だ。
 20歳女性いわく、「私は愚か者です。外で人とかかわるたびに自分の未熟さ、いやらしさ、愚かさがわかって嫌になります」
 とあり、「消えたほうがいいんじゃないかと思います」と続く。
 
 これを読んでああ、みんな同じだなあ、と思った。
 私もしょっちゅう、自分なんていないほうがいいんじゃないかと思う。
 本当に自分なんていないほうが誰も嫌な思いをせずにすむ。
 他人と関わるたびに迷惑ばかりかけて、愚かなことばかりする。

 
 回答者の、水道橋博士さんという漫才師の方は言う。
 45歳の自分も同じように思いながら生きている、しかし、「笑い」を職業にしたのが転機になったと。
 「お笑いの仕事は、「失敗」や「駄目」や「愚か」を笑うことができる。「駄目」がネタになり、「成功」へとつながっていく。(中略)お笑いの仕事は、「笑う」ことで、行き止りを一転突破できる稀有な仕事だと思って、この世界に入りました」
 「自分の愚かさを笑い飛ばせることが、出口や突破口と思えることが、大事なことではないでしょうか」

 
 これはしかし、相当な努力が必要な考え方ではないだろうか。
 笑いとばすには自分の「駄目」をまずしっかりと見なければいけない。
 「駄目」を「駄目」だと思って内に内にこもっていたほうが実は楽だったりする。
 客観的に見られたとしても「ああ、なんて駄目なんだ」と嘆くほうがやっぱり楽だったりする。
 それをさらに笑い飛ばすなんて。
 なかなか根性と気迫が必要だ。
 さらに、人々を楽しませる芸にしていくにはもっと大変だ。
 
 しかし、人を楽しませる職業を目指している以上、こういう考え方を持たねばいけない。
 もっと柔軟にならねば、と考える。