今日読んだ作品は「じゃじゃ馬ならし」。
 この作品、ペトルーチオが、食べさせない、眠らせない、といったいささか強引すぎる方法でじゃじゃ馬キャタリーナを従順な妻にするという筋書き。
 男が力づくで女を従わすというフェミニストの目の敵になるような物語だが、二人はどう見ても愛し合っているのではないか、ということは前にも書いた。ちなみに私も本格的に研究したこともあるくらいの結構なフェミニストだ。
 しかし、私の中でやはり謎だったのはなぜペトルーチオはそんな強引なことをするのか、ということだ。
 実はものすごく不器用な人でそんなふうにしか愛を伝えられないのではないかとも考えたが、ペトルーチオのしゃべり口を読んでいると余裕な感じだ。
 人間的にも生き方にも自信と余裕がうかがえる。
 見ようによっては結構、嫌味な男だ。
 そんな人が、なぜこんな回りくどい面倒くさい、普通の人には共感を得られがたいようなことをするのか。
 
 この疑問のひとつの回答が「シェイクスピアの男と女」(河合祥一郎 著)という本に書かれていた。
 
 本書によれば「じゃじゃ馬ならし」は「愛の芝居」である、「キャタリーナが最後までペトルーチオに心を許さないのなら、この芝居はキャタリーナいじめでなく、そんな芝居はなんの価値もない。キャタリーナが次第にペトルーチオに心を開いていくとすれば、それはどのようになるのか」
 とある。
 
 夫婦が愛し合うというのは、夫が妻にきれいな服や帽子を与えられ、衣食住不自由させないという即物的なことではなく、「自分のすべてを相手にゆだね、相手のすべてを自分にゆだねる」ということ。
 ペトルーチオはキャタリーナに言うことをきかせることで、プライドの高いわがままなキャタリーナに相手を受け入れることを教える。

 そして、彼ははたとえばキャタリーナの帽子やガウンをとりあげ、「外見にこだわりすぎるキャタリーナに対して「他人の目や外見を気にせず、自分に素直になること」を教えている」ということだ。
 
 「外見と中身」、シェイクスピアの作品ではたえずこのテーマが出てくる。
 食事を与えない、帽子をとりあげる、等の行動は、行為そのものというより、すべて「物質的なもの」の象徴だと解釈したほうが受け取りやすい。
 物質的なものをすべて取り上げて、本当に大事なものを、つまり心を発見する。
 そう考えれば、現代にも通じる物語だと納得できる。

 とはいうものの、やはり、観客は描かれている行動の真意ではなく行動そのものを見てしまうのが普通ではないだろうか。
 
 この戯曲も本書によれば「フェミニズム批評から猛攻撃を受けてきた」とある。
 たとえば、「主人公二人の愛の話だ」と解釈したとして、男女同権が声高に叫ばれているこの現代でこのストーリーをどう表現すれば伝わるのか。
 
 
 それにしても、この戯曲、単純な話の割には、思いのほか読みにくい。
 その原因として、ちょっとサブキャラが多すぎるのだ。
 しかも、それぞれ変装したりしている。
  
 たとえば「グレミオが家庭教師に変装したルーセンショーをともない、ペトルーチオが音楽家に変装したホーテンショーをともない、ルーセンショーに変装したトラーニオがリュートと本をを持つビオンデロをともなって登場」なんてト書きがある。
 
 この人がこの人に変装して・・・と考えていると、投げ出したくなる。
 上演すると、ものすごく面白くなるところだろう。
 戯曲というのは読んでいてものすごく分りにくいところが、実は上演したら面白いところだったりする。
 戯曲は上演されることによってある意味完成される。
 読むだけで楽しむには、普通の小説の何倍もの想像力とエネルギーが必要だ。
 そんなことを痛感する作品でもある。