週に一度の研究センターも冬休みに突入した。
 冬休みの間はシェイクスピアの作品をできるだけ読み直そうと決めた。
 
 第一弾は「から騒ぎ」。
 なぜこの作品を手に取ったか、というと次回公演の候補作のひとつであるということ。
 映画の印象も濃く、まずはとっつきやすいものから。
 楽しそうであるということ。
 自分の気持ちとして、重い気分になりたくないという印象もあり。
 ちょっと疲れているのかもしれない。
 こういうとき、人は喜劇を求めるのだろう。


 クローディオとヒーローがドン・ジョンの悪巧みにはまるも、結局ハッピーエンドになるストーリーを主軸に描かれているが、様々な解説に書かれているように、どちらかというとサブストーリーのベネディックとベアトリスの恋の行方(?)のほうが断然面白い。
 会えば喧嘩ばかりしているベネディックとベアトリス。
 しかし、ドン・ペドローを筆頭に二人をくっつけようと周囲の人が算段する。
 それぞれに聞こえるように「でも信じられませんわ、ベネディック様がそれほどまでにベアトリス様を愛しているなんて」と、互いが実は相手を愛しているんだという噂を流す。
 
 え?会えばあんなに悪口を言っているけど実は自分のこと好きなの?とそれぞれが思うようにする。
 
 みんなで協力し合って噂を流すというくだりが、なんだか牧歌的で面白い。
 暇というか平和というか。
 でもなんかいいなあ。
 
 
 
 これ、本当にやってうまくいった例があるんだろうか。
 ちょっと噂を流してくれと周りの人に頼んでみようか、なんて邪な考えが浮かぶ。
 しかし、相手の悪口を言ったり喧嘩をするのは相手を気にしている証拠だ。
 双方に脈があるからこそ、この作戦もうまくいくのだろう。
  
   
 「小田島雄志シェイクスピア遊学」にとても興味深いことが書いてあった。
 ベアトリスがベネディックを愛していると、故意に立ち聞きさせられたベネディックは独白する。
「おれは結婚など考えたこともなかった。が傲慢と思われるのも嫌だ、悪口を言われてわが身をただすことのできる人間はしあわせというべきだ(続く)」

 本文から引用すると「この独白は、ただ外なる力によってまんまと罠にはまったことを表明しているだけではない。自分にたいする「見なおし」をも暗示している。つまり、「自分でこうだと思いこんでいた自分」と「ほんとうの自分」とのあいだに、屈折があることも表明しているのである」

 外からの力はあくまでもきっかけであって、そこからは自分の力で「ほんとうの自分の心」を見つけていく。
 だから、ベネディックとベアトリスは周囲の算段があったことを知っても、二人の愛はびくともしない。
 
 喜劇で力を抜いて読めそうだと思ったら思いがけず深いところに入ってしまった。
 「こうだと思いこんでいた自分を裏切る自分」
 また、それが悲劇へとオーヴァーラップするという。

 「どうせ楽しい人の世ならば せめて楽しいふりをしょう」
 シェイクスピアの喜劇はどこか暗い影がつきまとう。
 
 絶望の裏には希望があるように、すべてがハッピーエンドという瞬間にも暗い悲しみがつきまとうのか。
 ううん。


 
 「から騒ぎ」に関しては、他者からのきっかけで本当の自分を発見し、愛する相手も見つかり結構なことではないかと思うのだが。
 自分の内面を知ることは、必ずしもいいことばかりとは限らないということか。
 そういえば、「タイタス・アンドロニカス」の芝居に誘った一人に「あの芝居は、あまりにも自分の内面の辛い部分を突きつけられるから行きたくない」と言われた。
 自分の内面を知ることは、反面激しい痛みを伴うことでもある。