「十二夜」〜間(あわい)の魅力〜
今日はと言いたいところですが、昨日はクリスマスだったので今日は「十二夜」です。
クリスマスから数えて十二日目の夜を十二夜と呼ぶそうです。(1月6日)
女王エリザベスが1601年に宴を催し、そのためにシェイクスピアに要請して書かせたものとのこと。
この作品は個人的にシェイクスピアの作品の中で最も好きだ。
なんといっても、男装のヴァイオラがかわいらしい。
仕えている公爵に恋をしてしまうが、相手は自分を男だと思っているし、オリヴィアに夢中なので恋のかなう見こみがない。
片思いに苦しむ彼女は切なくいじらしい。
公爵のお使いとして、自分の思いは隠し、懸命にオリヴィアに公爵の伝言を伝えるヴァイオラのかわいらしいこと。
また、自分の思いをそれとは分らない公爵に伝える場面も面白い。
こっけいでどこか物悲しい。
公爵 「おまえ、まだ子供のくせに、その目を奪われたことがあるようだな、いとしい人の面影に」
ヴァイオラ 「はい、あなた様のおかげで」
公爵 「どんな女だ?」
ヴァイオラ「はい、あなた様のような顔立ちで」
ここの場面の会話はこんなふうに終わる。
公爵「女とはバラの花、その美しさははかないいのちだ、
散っていくのも一瞬、咲いたか咲かないうちだ。」
ヴァイオラ「それが女です、悲しいことにそれが女です、
花の盛りと見えるときが、散りゆくときとおんなじです」
なんと、哀しい真理だろうか。
ヴァイオラはどうして若くしてこの真理を知りえたのだろうか。
彼女は今の自分が本当に美しく生き生きと見えることを知っているのだろうか。
そして、それがあっという間に終わってしまうことも。
「快読シェイクスピア」という本で松岡和子さんはこのように書いている。
「劇の登場人物と私たち観客を魅了するのは、素の、女のままのヴァイオラではなくて、男・シザーリオの「演技」をするヴァイオラなのだ」
「男装の服が不要になると同時にシザーリオもいなくなるだろう。女であり男でもあったシザーリオは、性徴期直前の「間(あわい)」の魅力がある。彼女は恋をして、男の扮装を捨てて女になっていく」
「間(あわい)」の魅力、というのはとても美しい言葉だ。
彼女は本当に好きな公爵と結婚することができる。
しかし、公爵夫人としての彼女に思いを馳せるのがとても困難だ。
男装シザーリオとしてのヴァイオラがあまりにも魅力的で。
幸せになったはずのヴァイオラ、しかし、公爵夫人としてのヴァイオラを想像するのはなんだかつまらない。
結婚式の一方で、オリヴィアの執事マルヴォーリオはオリヴィアの叔父らにさんざんいじめられ、「この恨み、必ずはらすぞ、おぼえておれ」
と言って退場する。
喜劇の退場の仕方としてはあまりにも暗く、強烈だ。
幸せになったはずなのに、なぜか悲しくみえるヴァイオラ。
そういったギャップがこの戯曲の魅力なのだろう。
最後はもう目いっぱいのハッピーエンド。
なのに、なんだかとっても切ない気持ちになる。
喜びの裏には、失うものがたくさんあると分ってしまうからか。
昨日のクリスマスは、静岡に行き旧友に会ってきた。
彼女は私が京都でアルバイトをしていた頃の友達なので、もう10年くらいのつきあいだ。
私の出た芝居も静岡から東京まで(この前は川崎まで)駆けつけ、ほとんど観てくれている。
駄目なときは「学芸会なみだ」とちゃんと言ってくれるので、これほどありがたい友達はいない。
シアターテレビジョンに加入しているくらいマニアックな芝居好きだ。
ちなみに先日の「タイタス・アンドロニカス」は大絶賛だった。
彼女が言うのだから、本当に良かったのだろう安心できる。
友人は行きつけのバーに連れて行ってくれた。
そこは「王子」と呼ばれる甘いマスクのバーテンが、華麗な手つきでお酒を作ってくれる夢のようなバーだ。
店の片隅には葉巻をくわえたダンディな紳士が一人静かにワインを嗜んでいた。
もう、別世界だ。
それでいて、このバーには堅苦しい雰囲気はなく、どんな身分の人も(というと語弊があるか)公平に落ち着くことができる。
王子に「私のイメージに合うカクテルを作ってください」と言うとグレープフルーツのサワー系のトニックと何たらを入れたカクテルが出てきた。
レモンイエローのカクテルは夢のように美しく透き通っていた。
現(うつつ)で夢を手に入れた気分だった。
夢を糧に、現実を明るく乗り切っていきたい。