宝塚のジュリアス・シーザー

 先日、菊地先生のレッスンで「ジュリアス・シーザー」の読み合わせをした時、ブルータス役の部分を読んだ。
 その台詞の深さ、あまりのかっこよさに恐れ多くも今は無理でもいつかブルータス役をやってみたいと思ったが、よほど変わった演出でもない限り女の私がブルータス役をやるのは無理である。
 しかし、そんな私に代わって夢を実現しているのが宝塚だ。
 さっそく観にいった。
 

 ご存知のとおり全員女性のこの宝塚歌劇団で、「ジュリアス・シーザー」を「暁のローマ」と銘打って上演されていた。
 
 ロック・オペラとされているように歌と踊りが満載。まさか、この「ジュリアス・シーザー」がこんな風になるとは・・・
 真面目な歴史劇という印象を持っていた私には衝撃的だった。

 幕前でまず、アントニーオクタヴィアヌス(オクテーヴィアヌス)の漫才!で始まる。簡単に歴史が紹介される。
 そして、幕が開きローマ市民たちのカエサル(シーザー)を讃える歌。
 「カエサルはえらい カエサルはえらい」の繰り返し。
 何しろ総勢91名で演じられているのだ。
 ものすごい群集の迫力だ。
 ちょっと、かの有名なミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」を思わせるものだった。
 
 やがて、音楽とともにカエサル(轟 悠)が登場。
 アントニー(霧矢 大夢)の捧げる王冠を拒絶するところから始まる。
 それを見ているブルータス(瀬名 じゅん)。
 「ローマ市民はかつて王政を廃して共和制をかちとった歴史があり、王という存在に拒絶反応を示すのです」と簡単に説明が入る。
  終始、こんな感じでこの時代の予備知識が全くなくても非常にストーリーがよく分かるようにできていた。

 
 戯曲にはあまり描かれていない女性たちにもスポットを当てていたのが特徴的だった。
 戯曲には登場しないブルータスの母セルヴィーリア(嘉月 絵里)やクレオパトラ(城咲 あい)も登場する。
 そして、もてもてカエサルの愛人たちが総勢30人!ほどでダンスをする。
 そこにカエサルが薔薇の花とハンカチを投げて、またまたかっこよく登場。
 群がる女たち。
 こんな場面、戯曲を読んでいる限りでは思いつかなかった。
 ううん、宝塚。
 本当はカエサルは当時56歳で禿げていて、たいしてハンサムでもなかったらしいが・・・
 宝塚にリアリティを追求するのは不毛だ。

 
 ブルータスとアントニーの演説の場面も歌と台詞で演じられる。
 大勢の市民たちの反応が分かりやすい。
 
 ひたすら様式美と分かりやすさを追求した分、少々物足りなく思える部分も多かった。
 しかし「多くの人は、自分が見たいと欲することしか見ていない」
 「どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」というカエサルの言葉が、非常に効果的に使われていて、印象に残った。
 
 また、精一杯生きた人々がいたというメッセージは、中心人物だけでなく、市民たちの生き生きとしたダンスでよく伝わった。
 パンフレットにあった小田島 雄志氏(「ジュリアス・シーザー」の翻訳者)の言葉も良かったので、引用したい。
「人間は可能性というものを持ったまま生きていて、実際にはその可能性の一部しか実現できずにいます。そんな中で、ブルータスにしろ、アントニー、キャシアスにしろ、ある瞬間に、彼らは自分でも気づかない可能性を発現し自分にもこんな秘めた可能性があったのかと驚きながら生きている・・・そこに青春を感じるのです。」

 果たしてASCの「ジュリアス・シーザー」はどんな舞台になるのか。
 精一杯、毎日を生きている生き様がそのまま舞台に発現される。
 「自らの可能性に驚きながら生きている人々」にどれだけ迫れるのか。
 心して取りかかりたい。