占い

 シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」を初めて読んだ時、「占い師」の出現が非常に印象的だった。
 シーザーの凱旋を祝う群集の中に、唐突に「用心なさい、三月十五日に。」と言って現れる。
 戯曲の中で文字を追っているだけなのに、そこに占い師が突然現れたかのように不気味で強烈だった。
 (勝手に腰の曲がったお婆さんをイメージしていたのだが、映画では男の人だった)
 
 また、シーザーが暗殺される前の晩、シーザーの妻キャルパーニャが悪夢を見ている。 
 シーザー自身も出かける前に占い師に占いをさせている。
 その結果、いったん外出をやめようとまでしたのだから、今よりもずっと非科学的なものへの信仰や占いの力が絶大だったのだろう。
 
 しかし、どれほどの悪い予言をされても、登場人物は結局そのまま突っ走り運命を変えることができない。
 では、予言はなんのためにあるのか。
 
 現代も占いは大流行だ。
 デパートには必ず占い師が軒を並べているし、テレビでは占い番組が高視聴率をとっている。
 また、雑誌の星占い、お出かけ前の開運占い等々様々ある。
 しかし、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」との言葉もあるように、占いはあくまでも参考。
 しかも、あまりにも手軽に自分の占い結果が手に入る。
 毎朝、「今日のラッキーカラーはイエロー」などと言われても真面目に実践する人は少ないのではないか。
 
 占いは非科学的なものだ。
 「ジュリアス・シーザー」の時代ならともかく、これほど科学が発達した現代にも大流行なのは、大きな効力を認める人が数多くいるからだろう。
 
 私自身、たまに人間ではない不思議なものや予知的なものを見たりする。
 夜ではなく、夕方の眠り(アルバイトの関係上ものすごく早起きなのでたまにこういう時間に仮眠する)
から目を覚ます瞬間が多い。 
 悪いものの方が印象的だが、その時は対処できず後で「あああ、やっぱり」などと思うことが多い。 
 たいがいは「疲れているんだな」とかその程度のことだが。

 自分自身の心の不安がなんらかの幻影を見せているのだろうか。
 そのとき起こった現象を真面目に受け取り、なぜそんな夢を見たかと自分の心としっかり対峙することも時には必要なのではないか。
 占いは非科学的なものだが、自分の心を知る手段にはなると思う。
 なぜ、不安なのか。何を恐れているのか。自分の心にじっくり問いかけることができる。

 こんなブログを書いていたら、友達から電話がかかってきて占い師を介してあるおまじないを教えてくれた。 
 占いに私のことが出ていたという。
 何が私を呼び寄せたのか・・・