役がなくなる

 今、死んでしまいたいほどの絶望感に襲われている。
 今回もっともやりたかった「タイタス・アンドロニカス」の道化役をできなくなった。
 なんだろう。
 状況からいって降ろされたという言葉は正しくないのかもしれない。
 私はたぶん、できなくて自ら降りたのだ。
 たぶんというのはまだよく事態が把握できていないのだ。
 
 今日の研究センターのレッスン時、解釈、考えた演技を稽古してもらい「次にやったできなかったら降ろすよ」と演出の彩乃木さんに言われた。
 私は、その言葉の意味がほとんど分かってなかった。
 なんだかもう必死だったので頭の中は真っ白になり、言葉の意味をよく噛み締めないまま芝居を続けた。
 そして、案の定できなかった。
 思わず「もう一回やらせてください」と言った。
 それでも、そのときその「もう一回」の重みが分かっていたのかどうか・・・

 
 思えば、いつもこれで死んでいいと思うくらいやっていたら、もう一回も何もないのだ。
 まだある、明日生きられると思うからいつまでたってもできるようにならない。
 そのときの稽古が終わってからも私はまだ状況をよく把握できていなかった。
 帰り際に、相手役(?)がいる状態でもう一度、稽古を見てほしいと頼んだ。
 そこで、もうその一回はないといわれたときやっと私は自分の置かれた立場が飲み込めた。


 頭が真っ白になっている間にチャンスを無駄にし、人生の分岐点を気がつかないで通り過ぎていたのだ。
 こんなことなら、今日の研究センターを休んで家で寝ていたほうがましだったかもしれない。
 それでも、毎回死ぬ気でやっていない以上、遅かれ早かれそのときは来ていたのだろうか。
 人生に巻き戻しボタンがあるなら今日の研究センターの13時くらいに戻りたい。
 
 
 いや、できない人が舞台に立ってはいけない。
 お客様のために決してあってはならない。
 今回の作品のクオリティのためにも、これでいいのだ。
 私なんかが舞台に立ってはいけない。
 
 まあ、それでもとある事情で出演はする。
 役者としてではなく。
 ありがたいことだと思わなければいけないのだろうか。
 たとえ、役者として出ないとしても。
 
 どんなことがあっても生きている以上、明日は来る。
 明日からこの絶望の日々をいかに笑顔で過ごすか。
 それが目下の課題だ。


 道化の稽古は分からないながらも手探りでやっていながらも、本当に楽しかった。
 毎朝、大声で相手役(?)と稽古していた日々は本当に楽しかった。
 もはや過去形だ。
 
 いつの日か「リア王」の道化がやりたい。
 そのときはきっとこのことは笑い話になっていることだろう。
 こんなことになってもまだ、芝居をあきらめていない自分を嘲笑したい。
 ははは。