美しきものの伝説
先日「劇団俳小」の「美しきものの伝説」を観る。
とにかく「ことば」「ことば」「ことば」・・・
劇場には「ことば」が満ち溢れていた。
大杉栄、荒畑寒村、島村抱月、小山内薫・・・
大正時代はなんと豪華な時代であったのだろうか。
社会主義、無政府主義、自らの主義主張を言葉でそして文字で自らの命を削りながら、激しい生命力で唱え続ける。
幾度、投獄されようが尾行がつこうが彼らは戦い続ける。
「言葉」に力があった時代。
「言葉」が真っ直ぐだった時代。
今の「言葉」の曖昧で無気力な感じと比べると眩しすぎる。
また、島村抱月、小山内薫らは輸入されてきたばかりの「西洋近代劇」に各々の方法論で日本に普及させるべく立ち向かう。
島村抱月は二元論を唱え、大衆演劇で資金を稼ぎ、研究劇で自分の芸術を追及する。
しかし、学生の久保栄(プロレタリア戯曲の作家)に
「大衆演劇では自分の芸術を逃がし、研究劇では観客を逃がしてしまっている」と矛盾を指摘される。
現代でもそういう部分が大いにあるような・・・
ただ、この芝居、この時代の人物やできごとに多少なりとも予備知識がないと分かりにくいのではないか。
台詞も膨大でしかも、難解。
ものすごく知能指数の高い人々の会話だし・・・
実際、寝ている観客が数多く見受けられた。
観客席がなんだか重い。
パンフレットに長い長い年表が付いていたが、非常に読みづらかった。
また、大道具が大変チープに見えたのも残念。
せっかくいい台詞を言っていてもなんだか安っぽく聞こえる。
実は前の養成所で「ブルーストッキングの女たち」という同じ作者(宮本研 作)の作品を勉強したことがある。
「美しきもの・・」が男の大正時代なら、女の大正時代を描いたのが「ブルーストッキング・・・」だ。
平塚らいてう、伊藤野枝等、時代の先頭を駆け抜けた女たちを描いた作品。
ちなみに私の役は、主人公伊藤野枝の姑という役割。
「新しい女たち」の中、もっとも旧弊、でもこの時代では多分一番普通。
嫁の野枝が夫(辻潤)以外の男(大杉栄)と接吻しているのを発見してしまい、それを物陰からじっと見るという場面があった。
その場面をもってして、「大西さんにぴったりな役」などと言われた。
失敬な。
ああ、私ってばいつまでもそんな役回り・・・
しかし、「ジュリアス・シーザー」は古代ローマだ。
「美しきもの・・・」は大正時代とはいえ、一応日本。
それでも、こんなに分かりにくいと思われるのに。
分かりやすく伝えるにはどうすればいいか・・・