愛の形の不思議「じゃじゃ馬ならし」

 劇団AUN公演「じゃじゃ馬ならし」を観る。
 ひたすらどたばたで漫画的で楽しい。
 ペトルーチオ役の人はイタリア人のような濃い顔で筋肉隆々、キャタリーナは恐ろしく、ビアンカは秋葉系の妹キャラ?。
 そして、何かが起こるたびに後ろで騒ぐ人々もいて終始にぎやか。

 
 シェイクスピア独特の長い台詞を言い合う場面は、言葉の力と迫力を感じた。
 また、ペトルーチオが結婚式で変な格好で来る、という場面では、予想だにしなかったようなとてつもなく変な格好で現れて相当意表を突かれた。

 
 そんな漫画的な演出もあまりに度が過ぎて、下品に感じられてしまう部分もいくつかあったのが残念。
 
 ペトルーチオはじゃじゃ馬で手のつけられないキャタリーナを、何も食べさせず、睡眠もとらせないという荒業を使い、自分の言うことを聞くように調教していく。
 そして、最後の女性蔑視とも取られかねない問題のキャタリーナの長台詞。
 妻は夫に対して従順でなければならない、という内容。
 みごとじゃじゃ馬は飼いならされて、良かった、良かったという結末。

 しかし、キャタリーナは本当に飼いならされたのか?と疑問を残す形で物語は締めくくられた。

 
 私は結構なフェミニストだが、なぜかシェイクスピアの原作を読んでも、芝居を観ても「じゃじゃ馬ならし」にあんまり腹が立ったことはない。
 ラストの台詞を言うキャタリーナには何か神々しいものすら感じる。
 ペトルーチオは持参金目当てでキャタリーナと結婚している。
 お金だよ、お金と思うのだが・・・ 
 なぜ、腹立たしく感じられないのか。
 「従順な心」、「飼いならす」などという言葉がどうやっても差別的に聞こえて惑わされる。
 でも、結局、なんだかんだいってこの二人、誰よりも分かりあい、愛し合っている。
 あの最後のキャタリーナの演説も彼女の最大限の愛の言葉に聞こえるからこそ腹が立たないのではないだろうか。
 おそらくだが。